深くうるわしい織物
差し出された布のなかに、宇宙が広がっていた。
吸い込まれそうな藍や青色に、金銀の砂子を撒いたような星々。ひときわ目をひく大きな渦は星雲だろうか。一見すると絵画にも見えるが、実は違う。絹糸で1本1本織られた綴織(つづれおり)という西陣織だ。絹糸の輝きはそのまま銀河の輝きに重なっており、思わず吸い込まれてしまいそうになる。
「『銀河鉄道の夜』をテーマにしたんですよ」
と教えてくれたのは、この織物作品のつくり手である爪掻(か)き綴織職人の森紗恵子さんだ。森さんは職人として織物制作を請け負いながら、個人の作品づくりにも力を注いでいる。小柄でいつも笑顔を絶やさない可憐な女性ながら、京都の伝統産業の若手職人で組織する「わかば会」では会長を務めていたこともある、積極的でパワフルに仕事をする人でもある。
織物は一般に織り機に仕掛けた経糸(たていと)の端から端までに緯糸(よこいと)を通して織るが、森さんがたずさわる綴織は少しやり方が違う。絵柄にあわせて経糸を部分的にすくって緯糸を通すのだ。その際、経糸を緯糸で包むように織るため、完成品では経糸がほとんど見えず、緯糸で絵柄が表現される。綴織は12種ある西陣織の技法のなかでも最も歴史が古く、西陣織工業組合のサイトには「世界で一番古いものは紀元前1580年頃、エジプト第17王朝のものがある」と記述されている。
西陣織の綴織の特徴といえば、爪掻き綴織があげられるだろう。細かな柄になると緯糸を打ち込む道具は使わず、織り手の爪で緯糸を掻き寄せて織り込むのだ。そのため職人さんは自分の爪にヤスリをかけてノコギリのような歯をつくる。
「わたしは中指の爪にやすりをかけています。慣れると大丈夫ですが、生活には注意が必要ですね。一番危険なのは洗濯物を洗濯機から出すときで、ひっかかって折れてしまうんですよ」
そうした不慮の事故に備えてスペアに人差し指の爪も伸ばしてあるのだと、手指にちょこんとついた小さな爪を見せながら、森さんはニコニコと語った。
なんだか当たり前のように話しているけれど、よく考えたら細い絹糸を爪で掻き寄せて織るなんて、途方もない作業ではないか。複雑な柄になると、1日かかって数センチ四方しか織れないこともあるという。この『銀河鉄道の夜』もまた、細い絹糸を一本一本織り込んでつくられているばかりか、細かな表現は森さんの小さな爪で緯糸を掻き集めたのだと思うと、なんともいえない尊い気持ちになった。
しかもわたしは、森さんにお会いする少し前に宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』を読み返したばかりだった。偶然が嬉しくてそのことを告げると、森さんもとても喜んでくれて、すかさずこう言った。
「わ、ほんとですか! 第何稿です?」
その質問が何とも森さんらしくて思わず笑ってしまう。何でも、宮沢賢治は『銀河鉄道の夜』を何度も書き直しており、稿によって内容が違っているそうなのだ。
綴織との運命の出会い
織物のテーマに文学作品を選んでしまうほど、それを読んだと聞けば第何稿かを反射的に聞いてしまうほど、森さんは言葉と学究の人だ。小学生の頃、おばさんから誕生日に買ってもらった広辞苑を「あ」から順番に読み込んでいって、好きな言葉に丸をつけていたというから、根っからである。大学も当然ながら人文学科に進んだ。森さんが在籍した当時の京都精華大学の人文学科は面白いところで、児童文学も民俗学も歴史学もなんでもありの学部だったという。なかでも大きな影響を受けたのは京都や日本文化に関する授業だった。祭や民謡などを紐解く授業があったり、染色の作家や工芸に関わる人たちが毎週いろいろやってきて専門分野を教えてくれた。その内容は、滋賀県出身の森さんにとっては初めて知る興味深いことばかりだった。
「もともとテキスタイルや色に興味があったのですが、大学の学びでよけい引き出された感じです。『襲(かさね)の色目』について詳しく学べたのは嬉しかったですね。かつて広辞苑を端から読んでいたときに「梅」とか「山吹」とか、襲の色目の名前を見つけてはノートに書き出していたくらい好きだったんです」
そんなふうに学究的に伝統工芸や染め織りの美に触れていた森さんが職人を目指すようになったのは、働き出してからのことだ。
「大学を出てすぐは親戚が経営しているエクステリアの会社に就職してCADデザインの仕事をしていました。でも設計ではなくて実際につくりたいという気持が強くなってきて、『職人になりたい』と思うようになったんです」
なんとなく色やテキスタイルが好きだったので染織関係の職人になろうと思い、ハローワークで「未経験可」の仕事を探したという。そこで出会ったのが修業先の爪掻き綴織の会社だった。
「たまたま、爪掻き綴織だったんですよね。そのときは、織物と染物の詳しい違いさえ分かってなかったんですよ。『金糸がキラキラしててきれいやなぁ、未経験でいいならやってみたい』と思いました」
西陣には綴織以外にもさまざまな織物があり、手織りもあれば機械織もある。ひとくちに「織物職人」といっても細分化されているのだ。さらにいえば染めのほうも、手描き、型染め、ろうけつ、絞り、藍染などなど驚くほど技法があって、それぞれに専門の会社があり職人さんがいる。そもそも学校で織物を学んだ人がいざ職人になりたいと思って探しても運良く求人があるとは限らないご時世に、ノープランででかけたハローワークで“たまたま”爪掻き綴織に出会うというのは、かなり運命的な出来事ではないだろうか。お話の内容に驚きを覚えつつ「きっと森さんは、爪掻き綴織の女神さまから織り手に選ばれた人なのだろう」と思わずにはいられなかった。
そうして始めた綴織に森さんはすぐ魅せられていった。初めの頃は吸収すること、覚えることばかりで面白いだけだったのだが、少し分かってくるとその奥深さに気づき「ヤバイところに来てしまった……!」と思ったという。当時は職場で1日みっちり集中して織っているとくたくたに疲れてしまい、休日はずっと寝ていたそうだ。こうしてひたすら努力を続け、技を磨いて8年ほど経ったころ、会社から促されて独立を果たす。出来高制で仕事を請け負う「出機(でばた)」と呼ばれる職人になったのだ。2012年、結婚を間近に控えた頃のことだった。
夫婦で営む町家の暮らし
現在、森さんがご主人や愛猫と暮らしている自宅は、間口が狭く奥に長い間取りの昔ながらの京町家で、京都市の「歴史的風致形成建造物」にも指定されている。西陣で見られる「織屋建(おりやだて)」という構造をしており、その名の通り家の奥にはジャカードや紋紙などの装置を備えた背の高い織機を設置するための吹き抜けの土間がある。だが綴織の織機はシンプルな手織機で小柄な女性ぐらいの背丈しかなく、森さんの3台の織機は土間ではなく部屋の中に置かれている。京都らしい趣のある住まいで手織りをする様子はどこか懐かしく、そして何だかとても豊かで、訪れた人はみな感激する。
立派な町家を見ているとにわかには信じられないのだが、森さんとご主人がこの家に出会ったころはボロボロで人が住める状態ではなかったという。土壁は一面崩れて外の景色が見えていたほどだ。それをご主人が中心となって自分たちで補修し、住めるところまで修繕したというからすごい。別の家に住みながら週末になるとこの家に通い、コツコツと修理する生活を2年続けたという。
森さんの工房では、年に数回地域イベントなどの依頼に対応し、町家と織物工房の見学を受け付けている。
「町家も伝統工芸も同じ京都の文化ですし、繋がっていると思っているんですよ。どちらも伝えていくことが大事ですから」
ちなみにご主人の職業は建築とは全く関係がなく、素材メーカーの研究職だ。共通の趣味である弓道が縁で出会っただけあり、暮らし方も趣味も互いの価値観が一致していて、「似たもの夫婦」という言葉が浮かんでくる。事実、賢治が『銀河鉄道の夜』を何稿も残していることを森さんに教えてくれたのも、ご主人なのだそう。仲睦まじい様子を拝見するにつけ、森さんが森さん本来の気質をいかんなく発揮して自由に織物の道に邁進できるのは、ご主人の存在も大きいように思えるのだ。
伝統を受け継ぎ、守るために
町家のなかには、ご主人が集めた紫水晶や黒耀石などの原石が飾られている。その隣には、森さんがアーティストの富永大士さんと共作した指輪「鉱物の記憶」シリーズも並んでいた。細やかな絹糸が織りなす複雑で深みある色合いに思わず目を奪われてしまう。
「鉱物は相方の趣味なんですが、石を見ていたらとてもきれいで、綴織で表現したいと思ったんです」
鉱物が光や角度によってさまざまな表情を見せるように、森さんの指輪も色がぼかされていたり金銀で彩られたりしていて、どこか立体的だ。
「西陣織のなかでも綴織は、帯や袈裟などにしか使われないので一定の方にしか手にしてもらえません。もっとたくさんの人たちに知ってもらうきっかけになればと思い、独立したときに『つづれ織工房 おりこと』を立ち上げてオリジナル製品にも挑戦するようになったんです。ふだんの職人の仕事は請負で図案も支給されますが、オリジナルの場合はコンセプトから考えることになります。特にこの指輪はアーティストの方と共作したので、とても勉強になりましたね」
そして意外なことに、この指輪に挑戦したことで逆に「帯をつくらなあかん」と思うようになったという。知ってもらうための作品づくりをするうちに森さん自身が自分の足元を見直すことになり「原点にかえろう」と思ったのだ。
「それ以来、さまざまな西陣織関連の職人さんたちと交流し、勉強するようにもなりました」
西陣織は驚くほど分業化が進んでおり、糸を染める人、金糸をつくる人など、各工程ごとに会社があり専門の職人がいる。それぞれの職人の元を糸がわたっていき、最後は布になる。町全体が工場のようになっているのだ。
「わたしは織る部分を担当する職人ですから、糸と図案があればいい。そのため機の装置をつくる人や糸を染める人など、織る以外の工程のことをあまり知らなかったんです。でもそれではいけないと思うようになりました。街を歩いていて知らない材料店をみつけ、立ち寄って話を聞かせてもらったこともあるんですよ」
いま西陣織は、高齢化と後継者不足の問題を抱えている。分業化のシステムは大量生産のためには効率がいいが、後継者がいなくなるとある部分の技術がまるごと失われてしまう危険をはらんでもいるのだ。今まで頼めていたことができなくなったり、必要な道具が手に入らなくなる可能性がある。
「織る人が全部やる必要はないと思っていますが、全体を把握しておくことは大事だと思っているんです。綴織をつくり続けるためにも、次の世代につなぐためにも」
森さんは生来の学究心を発揮しながら、綴織だけではなく西陣織についてもこつこつと学びを深めているのだろう。広辞苑を一文字一文字読んでいたあのときのように。その成果はこの先森さんが織る作品に反映されていくのはもちろんのこと、西陣織全体の大切な財産になるに違いない。